アニメの名言から学ぶ!

アニメやエロゲの名言とかから何かを学びつつ、それに関する自分の考えとか体験談を書く。また、物語シリーズで私のお気に入りキャラである貝木泥舟さんっぽく最後にその日の記事から得るべき教訓を書こうと思う。基本的に記事一つに名言を一つ(たまに二つとか)を引用するが、そうでないときもある。

引っ越そうかと思います

だいぶ放置してしまいました。

 

 

最近、このブログやってる事忘れてて、新しく同じようなブログを開設していました。

 

我ながら何やってんのって感じですがら、せっかく書いた記事なんで、新しい方のブログに統合しようと思いますので、どうぞよろしくお願いします。

 

新しいブログです。

www.meigenanime.com

ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った? 西村英騎の名言 この世における絶対的な力。集合的無意識のありがたさ

 「俺は一つの真理に行き着いた。。。それは・・・可愛ければいいじゃないか!」

 

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これはアニメ「ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?」の主人公・西村英騎の言葉である。

 

 

当然と言えば当然のことなのだが、この世には他に何か不都合な点やデメリットがあるとしても、ただその1点だけが特化していれば、それだけで受け入れられる、認められる絶対的とも言える力というのがいくつかある。

 

 

 

そのうちの一つがこの言葉でも言っている「可愛さ」である。

 

 

 

女優とかアイドルとかもそうだが、特に二次元という「実在しない人物」については「可愛さ」というのは絶対的で絶大な求心力があるのは間違いない。

 

 

 

アニメだろうがエロゲだろうが漫画だろうがラノベだろうが、その中に登場する人物たちはほぼ全員可愛い。もしくはかっこいいのが常である。

 

キャラとして、意図してブサイクにしたりする事はあるだろうが、登場人物全員がブサイクなんて事はまずありえないだろう。少なくとも私は見た事がない。

 

 

 

これは「可愛さ」に限った話ではなく、「面白さ」「美味さ」「便利さ」といった事にも共通するが、人間の趣味趣向は千差万別ともいうが、これらの絶対的な価値基準についてはあまり個人差はなく、大多数が可愛いと思う人は可愛いし、大多数が面白いと思うものは面白いし、美味さ、便利さもまた同様であると思う。

 

 

 

「いや、俺はそう思わないけど。」っていう例外は必ずあるだろうが、8割~9割くらいの人間に共通するような集合的無意識のようなものは確かにあるように思える。

 

 

 

細かい所では確かに人間というのは千差万別かもしれないが、「可愛さ」「面白さ」「美味さ」「便利さ」という絶対的ともいえる価値基準に支配されているという点においては人間にほとんど大差はない、というか同じと言ってもいいかもしれない。

 

 

 

しかし、なぜそれを「可愛い」「面白い」「美味い」「便利だ」と思うのか?、を考えると、突き詰めると「なんとなくそう感じるから。」としか言えないからなんとも面白いというか、不思議である。

 

 

 

「こうこうこういう所が~」と何故そう感じるのか、思うのかを説明する事はある程度出来るとは思うが、さらにそう思うのはなぜか、なぜか、と問うていけば根本にあるのはそれに触れた時の直感のようなものだけが残ると思う。

 

 

 

私がいつからこれらの絶対的な価値基準に支配されたのかは思い出す事は出来ないが、私は死ぬまでこれらの絶対的な価値基準に支配され続けるだろう。

 

 

 

そういう意味では人間は人間というだけで既に自由ではないのかもしれない。

 

 

だが、訳の分からないこの世の中において、こういった絶対的な価値基準がある事は、生き続ける理由や死にたくない理由になる事を考えればそれはとても幸福な事ともいえるような気がする。

 

 

生きてれば、ふとなんで生きてるのか分からなくなる時が私にはたまにあるのだが、「じゃあ死ぬのか?」と考えると、死ねばもう二度と可愛い二次元キャラを見れない事、美味い料理を食えない事、面白いものに触れる事が出来ない事なんかを考えれば、「それは嫌だな。」となり生き続けようという気持ちにさせてくれる。

 

 

 

人間は本当にいろいろなものに縛られていてめんどくさいと思う。しかし、縛られているからこそ楽しかったり喜んだりとか出来るのかもしれない。

 

 

 

ちなみに、ネトゲの嫁は女の子じゃないと思った?」は現在放送中のアニメである。私はネトゲをやらないが、こういうキャラ達が残念系の作品は割と好きなので試聴中である。

 

 

 

月姫 アルクェイドの名言 人間が他の生き物とコミュニケーションを取れない事の幸福さ

「もしもよ?もしも鳥や魚が貴方とおなじくらいに知性と寿命があったなら貴方は食べられる?どんなに知性があっても食べ物は食べ物だって割り切って食べられる?」 

 

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これはビジュアルノベル月姫」のメインヒロイン、アルクェイドの言葉である。

 

 

今から話す事は我ながら、何も生産的でないし、それを言ったところで、聞いたところで、別に何かが変わるわけでもない。無意味と言えば無意味な話しかもしれないが、常々思っていたことがあるので書きたいと思う。(単に自分の頭の中のものを吐き出したいだけか。)

 

 

 

私に限らず、人間にとっては人間こそが最も大切で、その他の生き者は2の次、3の次である。

 

 

 

自分が生きていくために美味ければ何だって食うし、人生に娯楽や癒しを与えてくれるような可愛さを持っているならなんでも飼う

 

 

 

当然だが、ほとんどの人間はその行為に対して何の疑問も持たないだろう。私自身、肉や魚を食べる時にいちいちそんな事は考えていない。

 

 

しかし、↑の言葉のように、もし、豚とか魚とかが私たち人間と同じ言葉を話すか、または何を言っているかが理解できるようになり

 

 

「殺さないでくれ!」「俺には愛する家族がいるんだ!」「まだ、生きてやりたいことがたくさんあるんだ!」

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とか言ったりしていたとしたら、恐らくだが、誰もがそれを食べる事を躊躇するだろう。誰かが食べ始めれば、みんな食べ始めるかもしれないが、それまでとは違い、罪悪感のようなものを感じずにはいられなくなるのではないかと思う。

 

 

 

だから、私たちがそのほかの生き物とコミュニケーションを取る事が出来ないという事はこの上ない幸福だろう。

 

 

何を考えているのかも言っているのかも分からないからこそ、私たちはそれを罪悪感もなく当然のように食べる事が出来る。

 

 

 

また、ペットや観賞用の魚にしても扱われ方が違うだけで本質的にはあまり違わない気はする。

 

 

 

よくあるが、犬とか猫とかと人間の交流を描いたハートフルストーリーというものがあるが、あれを見ていると確かに犬や猫も人間と同じように幸せだったように見える。

 

 

 

しかし、所詮は見えるだけである。それが映画であってもドラマであってもなんでもいいが、それを作っているのは全て人間であり、人間の鑑賞用に作られた物で、つまり人間にとって都合の良い物である事は間違いない。犬や猫とコミュニケーションが取れて、制作スタッフに犬とか猫とかも参加することが出来れば違う物になるかもしれないが、そんな事は不可能である。

 

 

 

「ワン」とか「ニャー」とか言うのを喜んでるとか怒ってるとか好き勝手に解釈して、その判断を元に行動していく。最初から最後までそのようにしていって、最終的に「この子もきっと幸せだったよ。。。」と思えればそれで人間的には万々歳である。

 

 

 

しかし、それが悪い事であるわけもなく、むしろ人間に出来る犬や猫などペットに対してできる最善の行動である。それが出来る人間は本当に素晴らしいと思う。

 

 

 

これもただの勝手な推測だが、犬とか猫とかはペットとしては最高級の扱いを受けている気がするし、本当に幸せだったりする事もありそうだとは思う。鑑賞用の魚とかは「今日からここがお前の家だ!」とか言ってあの閉鎖空間に死ぬまで閉じ込められる事を考えてしまうと、あまりそうとも思えないのだが。

 

 

 

私はそれなりに動物は好きだと思う。みんなが見て「可愛い。」と思う生き物は私だって「可愛い。」と思う事は多い。

 

 

しかし、こんなことを考えてしまう性質なので、ペットは一生飼わないだろう。飼い出すタイミングにもよるかもしれないが、大体ペットは自分よりも先に死んでいく。

 

 

その時、私はその自分に飼われたペットが「本当に幸せだったのかどうか?」と考えてしまうだろう。同じ人間なら、生きているうちに「幸せですか?」と聞けば「幸せだ。」とか何か言ってくれるだろうが、(それが本音かどうかは置いておいて。)猫とか犬なら「ワン」とか「ニャー」しか言ってくれないし、魚なら何も発してくれない。

 

 

 

「ああ、彼(ここでは人間、動物含む)は幸せだったんだな。」

 

 

と私が思い込むに為にはやはり言葉は必要なのだろうと思う。

 

 

 

こんな考えても仕方が無い事を考えてしまうのは考えてしまい、ある意味自分の行動を制限してしまうのは損をしている気がしないでもないが、こんな風に思うようになってからは食事に対しより敬意を払うようになり、残したりする事は滅多になくなったのは非常に良い事だと思っている。

 

 

 

結局、何が言いたいのか自分でもよくわからないが、月並みだが、今日の記事から私が得るべき教訓は、他の生き者に対しての敬意を忘れてはならないという所だろうか。

車輪の国、向日葵の少女 樋口璃々子の名言 資格とか学歴とかには何の価値があるのか?

 

「資格なんて、所詮は社会が決めた基準の一つでしかないわ。弱いやつほどそういったものにすがるのよ、資格とか、学歴とかね。」 

 

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これは「車輪の国、向日葵の少女」というビジュアルノベルの樋口璃々子の言葉である。

 

 

そのまんま文字にこの言葉を受け取れば、

 

 

「そうだよ!やっぱ大切なのは、資格とか学歴とかじゃなくて、愛とか情熱とか精神的なものなんだよ!」

 

 

と、資格、学歴=大した価値はない。と解釈してしまう人は割といるかもしれない。何を隠そう、私も5年ぐらいの間ずっとそう思っていた。

 

 

「俺には資格も学歴も無いけど、やる気だけはあるから大丈夫!」

 

 

だと。そう固くなに思い込んでいた。

 

 

しかし、そこそこいい年にになって就活なんぞを始めてみると、それまで価値なんかないと思っていた資格とか学歴とかの価値が身に染みて分かってきてしまったのである。

 

 

気になっている会社の求人欄をいくつか、見ても、応募条件に、要〇〇免許とか書いてあったり、資格があるかどうか、大卒であるかどうかの違いだけで待遇が違っていたり、そもそも大卒じゃないと応募出来ないとか。

 

 

残念ながらそれが現実であった。

 

 

私は、やる気と資格や学歴、どちらがより重要かと問われれば、今でもなお、やる気と答える。

 

 

だが、こと履歴書上においては

 

 

やる気<<資格や学歴

 

 

という事を私は割と今更だが、ここ数か月の就活で学んだ。履歴書に「やる気はあります!」と書いたところで、正直どこまで効果があるのか。。。

 

 

 

高校生の時のとかに、「とりあえず大学は行っておいた方がいい。」「何かの役に立つから免許や資格は取っておいた方がいい。」そう周囲の人間が言っていた理由が4,5年越しに理解出来た。

 

 

当時の私と言えば、「いや、俺いざとなればやる気だすから。」という感じで、その時には何もやる気が無い癖に、いつか湧いてくるかもしれない、根拠のない、未来のやる気に縋っていたように思う。

 

 

 

資格とか学歴とかの価値が今いち分からないという人は、とりあえず、

 

 

資格、学歴=金

 

 

と考えていいのではないかと思う。というか、今の私はそう理解している。こう考えた方が一番シンプルでしっくりくる。

 

 

何せ、金が無ければ私たちは生きていく事が出来ないのだから、金のために頑張るという事についてははさむ疑問も無いはずである。

 

 

 

そういう訳で、今更だが、私は自分のやる気を資格取得にも向けていこうと思っている。

 

 

本当にやる気があれば、今から大学に入学して、大卒という学歴を獲得する事も可能なのだろうが、流石にそこまでする気にはならないし、学歴を得るためだけに大学にいくにしても既に好機を逃している気がするので、学歴については無いままでいこうと思うが。

 

 

 

なんとなくで生きてきた数年間だが、それでも、その経験で調理師試験の受験の条件は満たせるのだからラッキーという感じだ。

 

 

「所詮は社会が決めた基準の一つ」

 

 

は確かにそうであるが、しかし、残念ながら私は「社会」というものから逃れる事が出来ないし、そんな基準の一つに左右されてしまう脆弱なただの人間の一人である。

 

 

 

璃々子姉さんのこの言葉は

 

 

「俺こんだけ資格持ってるしー、学歴もあるしー、もうやる気なんてなくても大丈夫。」

 

 

って感じで私とは正反対のタイプの人間(というか本質的には同じか)には効果的かもしれない。

 

 

このパターンでは、履歴書は素晴らしい履歴書になり、採用はされるかもしれないが、やる気が全然なかったら続ける事が困難だろうし、それで辞めて次の所へっ、ていうのを繰り返せば学歴、資格は素晴らしくても職歴では非常に残念な方向に徐々に向かっていくだろう。

 

 

 

まあ、私の場合、「金のため」と考えるのが良いと思うが、なんとなくではなく、目的意識があって資格が学歴を取得していくのが最高だろう。

 

 

だが、学生時代ともなると、自分で稼いでいる訳でもないので、金の重要性については強く実感できないかもしれないし、明確な目的意識を持てというのも難しいかもしれない、親や友人が言ってたからとか、なんとくなく後々役立ちそうだったからとか、そういう理由でも動ける人は動いておいて損はないだろう。私はなんとなくで動くことが出来なかった人間だが。

 

 

ちなみに「車輪の国、向日葵の少女」というビジュアルノベルはエロゲ界では泣きゲートして有名であるが、実際に素晴らしい感動やメッセージのある名作である。全年齢版もあるので多くの人にプレイしてほしい。

 

 

 

車輪の国、向日葵の少女(限定版)

車輪の国、向日葵の少女(限定版)

 

 

 

 

 

今日の記事から私が得るべき教訓は、

 

 

・資格や学歴は社会に対し、自分自身の社会的な価値のようなものを証明するものであり、それはそのまま金に繋がるという事だ

 

 

決断した直後とか、しばらくした後とかにこういった気の迷いが生じるのは私の悪い癖だが、その度に私はこのことを思い出そうと思う。

アオハライド 菊池冬馬の名言 どこを向けば前向きなのか?

 

「前向きって分かんない。何をすれば前向きなの?」

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「吉岡さんが向いてる方が前向き。それでいいじゃん。」 

 

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これは少女漫画「アオハライド」の主人公、吉岡双葉の疑問とそれに対する菊池冬馬の返答である。

 

 

「ほんとその通りだよね。」って話をしようと思う。

 

 

 

誰でも良く言うと思うが「前向きにいこう!」という言葉がある。意味的にはポジティブシンキング、プラス思考とほぼ同じニュアンスで使われると思う。

 

 

 

しかし、前とか後とか、言葉に注目してみると、↑のこのやり取りはとても面白いというか興味深い気がする。

 

 

 

時には、自分からすれば前向きのつもりでも、周りから見れば後ろ向きでに見えるかもしれないし、自分では真っ直ぐ歩いているつもりでも、周りから見れば、斜めだったり、フラフラとしているように見えるかもしれない

 

 

 

たぶんだが、所謂前向きとかプラス思考というのは、自分と周囲でズレるよりは一致する事は多いような気はする。(美味い食べ物は大多数が美味いと言うだろうし、美人の女優を見れば大多数が美人だと思うのと同じような感じで。)

 

 

 

しかし、そうなる事が多いとはいえ、いつでもどこでも例外はあるものだと思う。例えば、ごく最近の私の行動などもその一つかもしれないので軽く紹介したいと思う。

 

 

私は現在、無職である。だから仕事を探さなければならない。そこで、自分の経験を活かせる職を探した。

 

 

とにかく、何でもいいから速く自分の経験に合った職を手に入れる事しか考えていなかった私は、面接でその先の事を聞かれだが、正直何も考えていなかったので、正直にそう答えた。

 

 

それでも、2次面接もしてくれるというのだから本当にありがたいと思う。しかし、私はこれを辞退した。

 

 

学歴も資格も特にない無職からの就職と考えれば、条件的には申し分ないというか、むしろ大分良かったと思う。

 

 

それを後もう一つ面接に通れば職を手に入れられるという所まできて、私はそれを自ら蹴ったのである。

 

 

 

周りからすれば、後ろ向きというよりかただのバカにしか見えないかもしれないが、私は「先の事を考えているのか?」と問われ、改めてそれを考えてみた結果、先に書いた非常に好条件と思われる職場に就職する事よりもより良いと思える道を見出したのである。

 

 

 

もしかしたら、後になってから、「ああ、惜しい事をした。。。」と思うかもしれない。しかし、私はとても前向きなつもりである。

 

 

 

自分の向いている方向について、他人から「それは斜めだよ。」「それはUターンしてるよ。」と言われたとしても、最終的に自分が向いている、向きたい方向。それが前向きであり、最善の道。こう思っていた方が幸せだと思う。全く、菊池君の言う通りだと思う。

 

 

しかし、他人の意見とか助言等は聞く耳を持たないのではなくむしろよく聞くべきだとは思う。私も今回は友人に相談して、最終的に決断したが、煮詰まった時には他人の純粋な意見というのはとても参考になる事があると思う。

 

 

 

今に始まった事じゃないが、自分が今向いてる方向とかやっている事とかに疑問とか迷いが生まれた時は、考えて、新たな道がより良い道が見つかるならそれはそれでいいかもしれないが、単なる気の迷いであるならば、「自分にとってはこれが正しくて前向きだ。」と思うしかないと思うし、そう思ってる方が幸せだろう。

 

 

 

ちなみに、「アオハライド」という少女漫画は胸キュンシーンたっぷりで秀逸な少女漫画であるうえに、何気に会話が深くて考えさせられたりもする作品で、男女問わずおすすめできる漫画である。アニメ化、映画化もしてるが、私は漫画しか読んでない。

 

 

 

 

 

今日の記事から私が得るべき教訓は、

 

 

・前向きとか正しさとか絶対的な解答が無いものについてはとりあえず自分にとって都合が良い事を解答としておくのが幸せであり、最善だという事だ

 

 

決断した直後とか、しばらくした後とかにこういった気の迷いが生じるのは私の悪い癖だが、その度に私はこのことを思い出そうと思う。

蒼の彼方のフォーリズム 倉科明日香の名言 私は上を向いて真っ直ぐに頑張り続けたい 

 

 

「上を向くこと頑張り続けること、元気でいること。そして好きなものに真っ直ぐであること。それを続けている限り、わたしの欠点なんて、どうにかなるって、わかったんです。」 

 

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これは「蒼の彼方のフォーリズム」というビジュアルノベル(アニメ化もしてるが、)のメインヒロイン、倉科明日香の言葉である。

 

 

 

客観的に見ても、主観的に見ても、あっちへフラフラこっちへフラフラとしてきた私にはあまりにも真っ直ぐで眩しすぎる言葉である。

 

 

しかし、だからこそなのか、私はこの言葉が言うようなあり方にずっと憧れを抱いてやまない。

 

 

 

私は確かにフラフラしてきた。しかし、自ら望んでフラフラしてきた訳ではない。振り返ってみれば確かにフラフラも良い所だが、私はその時々は真っ直ぐに歩こうとしてきたつもりなのである。

 

 

しかし、その道で壁にぶち当たるか、もしくは途中で「他の道の方が自分には良いのではないか?」という気持ちが生まれたりと、結果的に1つの事を続けるという事が出来ずここまできてしまった。

 

 

この作品では部活・スポーツが題材なので、現在の私の状況とは少し異なるが、

 

 

「好きなものに真っ直ぐであること。」

 

 

私はここでいう「好きなもの」。つまり、「自分が真っ直ぐに向かい合いたいと思うもの」。これをここ数年間、模索してきたように思う。

 

 

 

趣味においては、私は自分にとってのそれが「エロゲやアニメである。」と思う。しかし、ここではその理由など詳細は割愛するが、それをそのまま仕事にするという事は私は断念している。

 

 

当たり前の話だが、この世の中では、何かしらの仕事をし、社会に貢献しなければ生きていく事が出来ない。

 

 

だからこそ、私は仕事の面で真っ直ぐに向き合いたい、または向き合っていく事が出来るものを手に入れなければならない。

 

 

私はつい最近、自分の長期の飲食店での経験を活かそうと思い、とある会社に応募し面接をしてきた。

 

 

 

その際、

 

「将来、料理人になりたいとか、自分の店を持ちたいとかありますか?」

 

 

と聞かれた私は、答えに窮し、「今はまだ考えていません。」という情けないと言えば情けない返答しか出来なかった。

 

 

ただ、自分の今までの経験を活かして職を手に入れようとしていた私には、「将来、〇〇な料理人になって、〇〇な店を持ちたいので、修行がしたいです!」というような夢と希望に満ち溢れたような返答は私には嘘でも出来なかったのである。

 

 

 

正直、今でもこんな料理人になりたいとか、こんな店を持ちたいとか、特に考えた事もなかったし、よく分からないというのが本音である。

 

 

しかし、考えてみれば、その道に入って、上を向いて真っ直ぐに頑張り続けていけば、料理人とか店を持つとかいうのは自ずと視界に入ってくるものだと思う。

 

 

 

飲食店で長く働いていたとはいえ、そこには、「自給がいい」だとか「家から近い」だとか「賄があるから」だとか、その程度の理由しかなく、料理にも経営にもまるで興味はなかった。

 

 

 

しかし、その道に入る以上、「興味がないものは興味がない。」と切り捨てるのではなく、興味を持って取り組んでいけたらいいと今では思っている。

 

 

それに、いつまでも全く興味も関心も無いものに対して、上を向いて真っ直ぐに頑張り続けるなんて事は苦行以外の何物でもないだろう。

 

 

多分だが、誰だって本当は上を向いて真っ直ぐに頑張り続けたい。のではないかと思う。

 

 

頑張れない人というのは、頑張るもの、頑張り方、頑張る場所、これらが分からないだけではないのだろうか?

 

 

我ながら、書いてて社会に適応できないヘタレの言い訳のようにも聞こえるし「まるっきり自分自身の事じゃねえか。」と思うのだが、私だって本当に迷える人を卒業し、上を向いて真っ直ぐに頑張り続ける人」になりたいのである。

 

 

 

 

今日の記事から私が得るべき教訓は、

 

 

・私という人間は、確かに上を向いて真っ直ぐに頑張り続けたい。と思っているという事だ。

 

 

そう自分が思っている事自体はとても救いである。幸いな事に2次面接はしてくれるらしいので、そこから真っ直ぐに向き合っていきたいものだ。

PSYCHO-PASS 常守朱の名言 ネットとの付き合い方

 

「ネットって、物を調理するための刃物とか、記録するための紙とか、そういうレベルのものじゃないですかね?良い悪いじゃない・・・そこにあるんだから受け入れる・・・使うっていう。。。」

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これはアニメ「PSYCHO-PASS常守朱の言葉である。
 
 
 
ネットが普及し始めたのはいつの頃だっただろうか?
 
 
少なくとも、私が物心ついた時には「ネット」は当たり前のように身近にあった。
 
 
小学生の頃は、自分の持ち物でネットに繋ぐ事が出来なかったので、学校のPCや親のPCでこっそりとやるなど結構な制限があったものだが、高校時代にもなれば、みんな当たり前にように携帯電話を持っていて、私もそれに漏れずで、
 
 
「常にネットに繋がっているのが普通」
 
 
とも言えるような状態になったし、今はもう携帯電話も古い物であり、スマホというより便利なものでネットに繋がる事が出来る。
 
 
一応、最近の若者である私などは、最早ネットがなかったらどうやって生きていけばいいかわからなくなるぐらいネットに依存していると言ってもいい。
 
 
 
最近の若者で、ネットに繋がる事が出来なくなっても平気だと本気で言える人は中々いないのではないかと思う。
 
 
実際、ネットはめちゃめちゃ便利でこまった事があっても調べたり、質問したりすれば大抵の事は解決すると思う。
 
 
また、今私が書いているブログもそうだが、完全に自分で記録するだけ、読み返す事だけが目的ならネットは必要ないが、不特定多数の誰かに見て欲しいという気持ちがあるなら、ネットなくしては不可能だろう。
 
 
 
ツイッターなんかも、ブログと比べ、文章が短い、一つ一つの情報量が少ない事が特徴だが、「誰かに自分を見て欲しい。知って欲しい。」という気持ちが全くないのならば誰もやらないはずである。
 
 
もしそうならば、さっき言ったように、ノートにでも書くか、ぼそっと一人で呟いていればいい。
 
 
当然と言えば当然だか、「ラーメン屋ナウ。」とか手元にあるノートにペンで書いたり、その場で口に出して言う奴なんていないと思う。(いたら見てみたいが。)
 
 
 
私が思うに、多くの人がネットをする最も強い動機は
 
 
・情報収集として有益なツールだから
・誰かと繋がって、自分を見て欲しい、知って欲しいから
 
 
このどちらかだと思う。(企業などの場合は、集客や宣伝に使えるなど、仕事の側面もあるだろうが、個人の場合は大体これだと思う。)
 
私も情報収集と繋がり目的が7:3ぐらいの割合である。
 
誰かと繋がりたいのは確かなのだが、
 
 
「顔も名前も知らない相手と深く繋がる。」
 
 
と考えるといまいちピンとこないので、私はほどほどと言うか、浅めの繋がりでいいと考えている。
 
「それは浅すぎでは。」と自分でも思わなくもないが、ネットの繋がりというのほ、ツイッター上の繋がり程度でいいのではないかとも思っている。
 
 
たまに、ブログとかのコメントで割と長文のやりとりをするのは楽しいが、「今、自分は○○な仕事をしていて、○○な状況で、○○なんですよ。」とかあまり突っ込んだリアルの話とかをネット上でするのはあまり好きではない。
 
 
そこまで突っ込んだ話なら、実際に会って面と向かって話すべきだと私は考える。
 
 
いくつかささやかなやり取りをして、互いに実際に会って話したいと思えるようになったのなら、実際に会って互いの突っ込んだリアルの話をするのもいいだろう。
 
 
しかし、それをネット上ですればどうしても親身さに欠けてしまうと私は考える。親身さのない深い関係性などはないだろうし、あっても最悪だろう。
 
 
だから、私はネットを使う動機を情報収集のためと、ほどほどに浅い関係性と決めている。
 
 
これは私自身の体験談だが、自分がどのようなスタンスでネットと接するかを決めていないの、何かと損をしたり、苦労すると思う。
 
 
 
例えばネット上での金のやり取りは本当に気をつけるべきである。ほんの1クリックとかで何10、何100万円すら動かす事が出来るが、それがなくなっても、ネット上ではただ残高の数字が減っただけで、喪失感が希薄なのである。
 
 
私は一時期、ネットのギャンブルにハマり、軽く100万円は無くした事がある。
 
 
また、私は先に自分がネットを使う動機を情報収集が7で繋がりが3と言ったが、これが情報収集が1で繋がりが9の人と繋がったとしたら、これはこれで大変である。
 
 
ネット上で深い繋がりを求めている人とそもそもそれを求めていない人が繋がっても、いずれ破綻するか、続いたとしても、どちらかが多大なストレスを抱える事になると思う。
 
 
他にも、もっぱら金を稼ぐ為の業者の人と、深い繋がりを求めている人なんかが繋がるのも危険だろう。深く繋がっている体を装って金を搾り取られそうである。
 
 
現代においては、ネットに全く頼らず生きていくのは至難で、そこにある以上、使わずにはいられないものだと私は思う。
 
だからこそ、ネットに対する自分のスタンスを決める事が重要なのだと私は思う。
 
 
ちなみに、「PSYCHO-PASS」と言うアニメは有名で名前も聞いた事ないって人の方が少ないかもしれないが、実際に面白い。設定自体にメッセージ性も感じる。少々グロい所や悲しいシーンもあるが、面白いアニメが見たいなら見てみると良いと思う。

 

 

 
 
今日の記事から私が得るべき教訓は
 
・ネットに対する自分のスタンスを確立し、それを忘れてはならない
 
ということだ。